ゴジラ−1.0が大ヒット上映中だ。
この勢いは日本国内だけに留まらず、興行収入は世界で140億円を超えたという。(全米では邦画の興行収入は歴代一位を更新)
ヒットの勢いは未だ続き、今日1月12日には本作のモノクロ版も上映開始された。
私は、先週11日(木)にすでに公開中のカラー版を観に行って、そのときに12日からモノクロ版も上映されることを知った。
カラー版もモノクロ版も両方観たいか?ということなのですが、前回の記事で触れたとおり、本作は非常に面白かったのは間違いない。
しかし、厳しい評価を下す人からは”演出、演技ともにわざとらしい”という意見もあり、私も鑑賞中に正直そう思ったひとりでもある。
しかし、カラー版と違って視覚から入る色情報が減るモノクロ版ならばその”わざとらしさ”もうまい具合に中和して観れるのではないか?
もしそうだとしたら、カラー版よりもモノクロ版の方がアートとしては面白いのではないか?
ということで、同作品の異なるバージョンを観て自分はどう感じるのだろうか?ということを、先週のカラー版鑑賞の熱が冷めやらぬうちに確認しておきたくて、4日後の15日月曜日にモノクロ版を観に行ったのだ。
自分なりの結論から言うと、私の予想は大きく外れてなかったと思う。
やはり、モノクロになった分、視覚では認識できない分が想像の余地が増えて、カラーではちょっとベタすぎに見えた演出、オーバーに見える演技も、色が2色になるだけで随分とそのおおげささが間引かれてちょうどいい感じになった。企画当初からモノクロ版を出す予定だったのかどうかは知らないが、初代ゴジラ、つまりゴジラの原点を知らない人たちにとっても大正解かと思う。
暗部が増えたゴジラ像はますます怖くなったし、そもそもが戦後すぐの時代設定なのでモノクロ映画はマッチするし、”悲惨さ””惨さ”といった負の印象をより強調した世界観を引き立たせていたと思う。
で、私は一部の映画マニアやゴジラマニアは別として、初代ゴジラから70年経った今、その初代の話を知っている人ってどのくらいいるのか?ということが頭によぎった。
リアルタイムで観た人はもう年輩者になっているだろうし、そもそも劇場に脚を運んでいる人たちの多くが”初代ゴジラの原像”を持っていない、ということがほとんどなのではないか?
ゴジラ-1.0は初代ゴジラのオマージュと思われる箇所がいくつもあり、当時は少年少女、今はおじいちゃんおばあちゃんの世代にあたる方々にとってもゴジラ原像を憶い出すことのできるシーンが多くある。
なぜか線路と電車が好きなゴジラは往時からのものだし、クライマックスのゴジラが水没していくのもそうだ。
子供なんかに見せると初代は「着ぐるみ」にしか見えないそうだが、戦後間もない頃に、原爆や戦争への批判を込めたメッセージをゴジラという虚像に乗っけてビジュアルストーリーテリングの世界で伝えた功績は高い。映画だからこそ、そのメッセージは海を越えたと言えるだろう。
として、時を超えてゴジラというキャラクターや脚本の構造は原点をしっかり踏襲しながらも、山﨑監督はじめ白組さんのお家芸のVFXによる視覚効果による新しい表現はまさに”不易流行”を体現したものだったかと思える。
何より、東西きな臭くなっているいまの時代に戦争や原爆、それから近年国家のブランド価値が高まり、これまで以上に注目を浴びている日本の映画ということでハリウッドの文脈にブッ刺さったのも時を得たものだと思う。
2016年の庵野監督のシン・ゴジラで、ああ、ゴジラって核兵器や戦争の恐ろしさを象徴していて社会風刺の妙を愉しむのを含めて観る思索的な映画であったが日本国内ほどヒットしなかったのはグローバルマーケティングを第一に考えていなかったからとも言えるが、-1.0はそこを最初に考えていたとも言える。
シンゴジラは実写版エヴァンゲリオンといわれるほど庵野色が強いところもあり、例えば下顎が二つに分かれたり、背びれからビームが出たり、ゴジラ原像とはちょっと違う新しいゴジラ像を世に提案したし、それがめちゃくちゃ面白かった。
しかし、始めて見た子どもは多分、庵野ゴジラがゴジラの原像と思い込んでしまうだろうから映画という芸術を考える際にはやはり、ニュートラルなゴジラ像というのも、ゴジラの原点を知らない人にとっては必要になってくる。
そういう意味で、ゴジラ-1.0は庵野ゴジラで新しいゴジラとして+1.0になったゴジラ像を-1.0に戻し、原点にして頂点であった初代ゴジラがいかに偉大だったかを再確認させられる作品にも仕上がっていたと思う。
マイナスカラーはとりわけ、作品の時代背景を鑑みてもマッチしていて、その後に初代ゴジラを見直してみると、うまい具合に創ったなぁと驚嘆させられる。
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