ゴジラ−1.0が大ヒット上映中だ。
この勢いは日本国内だけに留まらず、興行収入は世界で140億円を超えたという。(全米では邦画の興行収入は歴代一位を更新)
ヒットの勢いは未だ続き、今日1月12日には本作のモノクロ版も上映開始された。
本作、私としては庵野監督のシンゴジラを超えるような作品はしばらく出ないだろうと高を括っているところもどこかあったのか観に行こうとは思わなかったが、目利きの業界人や評論家などプロの方が本作をこぞって絶賛しているのを見て、やっぱり勉強させてもらう意味でも観に行っていこう、というような感覚で1月11日に劇場に脚を運んだ。
結論、どうだったか。
面白かった。
これでいいと思う。
いい映画には蘊蓄めいた小難しい感想はいらないし、ヤボというものである。
その上で私なりに感じたことを整理しておきたい。
さて、何かと比較されるであろう山崎貴監督の手がけた本作と庵野監督のいわずとしれたシンゴジラだが、ゴジラという作品に対するアプローチの仕方が対照的で優劣はつけられない、という私の中でのオチになった。
マイナスワンは山崎監督の真骨頂といわれる”VFXを駆使した史上最も怖いゴジラ”と山崎監督本人もインタビューなどでいっていたがそこに”ベッタベタの人情ドラマ”というように、老若男女問わず誰が見ても分かりやすいものだったかと思う。
反面、庵野監督をしてツッコミどころ満載といったのがどのあたりを指すか具体的なことは分からないが、山崎監督の過去作「永遠の0」の既視感もあり展開がある程度読めるほどベッタベタなのは否定できない。大衆向けの「分かりやすさ」を意識してか演出や演技もどこか日本の大衆向けドラマ特有なのか”わざとらしい”、ところも目の肥えた人なら感じるかもしれない。
私はこの芝居くささみたいなのは好きではない。
しかし、私はシンプルにクライマックスでは涙もこぼれた。
劇場から出た後はしばらくゴジラのテーマと咆吼が頭から離れなかった。
その上で、、、また、観に行きたいか?
・・・(小学生の)子どもを連れて行きたいなと思う。
これでいいのだ。
確かに怖いゴジラではあったと思うがいわゆる子どもに見せたくないグロシーンはなかったし、むしろ、お化け屋敷感覚でキャーキャー言うのを見てみたい、というのと、決して賛美されてはならないと思うが戦後忘れ去られていった日本人の心みたいなものに触れてもらいたい、という気持ちが先に立つ。
マイナスワンは王道ゴジラ路線に忠実でありながら、山崎監督のこれまでの作品で培った知見の集大成的大衆エンタメ映画として、とてもいいところに筆を置いたという印象を受けている。
めちゃくちゃ意識したんだろうと思うが、庵野監督のエヴァンゲリオンの使徒のようなシンゴジラとは真っ向戦うのは避けたところも見て取れる。
シンゴジラももちろん基本に忠実だったとは思うがその上で、口が四方に分かれるとか、神々しいBGMと共に発射される背中からもレーザービームとか、その上でゴジラの見立て方という意味では庵野ワールド的革新的要素(冒険的要素)が際立っており、そうくるか!と度肝を抜かれた。
しかし、マイナスワンはというとシンゴジラのときのような異次元の怪物とは同じ土俵には乗らず、あくまで王道のゴジラ像は崩さずの上でいつどこに出しても(老若男女、国内外)負けない映画を作ったように思える。
普通、前作が神作品であればあるほど、観賞者の固定概念も強くなる。それだけに次作は乗り越えなければならない壁になる。で、ついその前作のマウントをしようとして駄作に終わるのが関の山であることが多い。基本、続編がつまらない、というのはしかたのないことである。
本作はゴジラシリーズではあっても、シンゴジラの続編ではない。
しかし、ほとんどの客は私のようにシンゴジラと比較するという意味においては、”続”という見方をされてしまうのだが、それを見事に乗り越えたというか、同じ土俵に立たないという選択をしたことで覆したとは思う。
シンゴジラはそもそものゴジラ像を庵野監督の世界観で再解釈されて表現されたところが面白かったわけで、その像はというと怖いというよりも”神々しい”が私の中で残っている。
庵野ゴジラで作られた新しいゴジラ像に負けない作戦として、あくまで王道の怖い怪獣としてのゴジラ像に回帰した上で、そこを山崎監督お家芸であるVFXの技術を駆使してこれまでになく強調されていた。
そこに、庵野ゴジラには描かれなかった家族ドラマ的な人情ものの要素が加えられて、怖さと愛情のコントラストがハッキリしていたと思う。
主役を演じた神木隆之介&浜辺美波さんたちはNHK朝ドラコンビだが、彼らを共演させた意図も、マイナスワンを観て合点がいった。(ちなみに、お二方へのオファーはマイナスワンの方だったそうだが)
結論、私は本作品はどちらかというとコアな層にも受けるシンゴジラとの戦いは避けて、あえてもう少し裾野を広げて誰にでも分かりやすい作品にして、コア客も含みつつも客数の多そうなところで勝負したという印象を受けている。
マーケティング論におけるイノベーター理論というのがある。
イノベーター(革新者)2.5%
アーリーアダプター(初期採用層)13.5%
アーリーマジョリティ(前期追随層)34%
レイトマジョリティ(後期追随層)34%
ラガード(遅滞層)16%
明確な区分けは難しいが、私はシンゴジラはコア層寄りのアーリーマジョリティ向け、マイナスワンはというと大衆よりのレイトマジョリティに向けたものだと解釈する。
それ以上もそれ以下でもない。
だから、悪く言えばマイナスワンはコア層の多いアーリーマジョリティからすると素人向け、というかちょっと難しいことは分からない、分かろうとしない大衆にも格調を下げたという解釈もできるし、コア層からの批評は百も承知でこの領域で勝負したという感じがする。
逆に、未鑑賞の人の立場で物を考えると、シンゴジラはというと、エヴァンゲリオンの人がつくったゴジラってなんだか難しそう〜、私今回は遠慮しとく〜、といった具合でなんだか近づきにくい印象を与えるかもしれない。庵野ゴジラが現代アート的と言われるのはそのためだろう。
マイナスワンは結果的に別の土俵で大勝利中なのだが、うまく巨人から逃げたとも言える。逃げるというとネガティヴな印象を抱く人もあると思うが私はそうは思わない。むしろ英断で、日本映画のアイコンであるゴジラの看板を背負っている以上、海外でも負けないために戦法として正しいと思う。
圧倒的巨人に真っ向からの勝負を避け、土俵を変えたところで負けないようにするといういい例だが、その巨人に憧れて追従しようとするとそれこそ愚にもつかない続編が生まれてしまったりもする。
国際的コンテンツ”ゴジラ”はもはや古典芸能ともなりつつあるが、これまでの伝統を保守しながらも、古今東西の人々から広く受け入れられるものでないといけないという使命を背負っている以上、作り手は感動ポイントの最大公約数も見極めないといけないわけで、目利きの人に納得させる方に寄せることはいくらでもできたと思うが、マニアックなニオイを表に出すのを捨てたのだが結果的に目利きの人もうならせた、という感じもしている。
だから、色々ひっくるめて、面白かった、私の中でその一言が出てきた。
能の大成者・世阿弥の風姿花伝には次のようにある。
上手は目利かずの心に相叶うことかたし。下手は目利きの眼に合ふことなし。下手にて目利きの眼に叶はぬは、不審あるべからず。上手の目利かずの心に合わぬこと、これは、目利かずの眼のおよばぬところなれども、得たる上手にて、工夫あらん為手ならば、また目利かずの眼にも面白しと見るように能をすべし。この工夫と達者とを窮めたらん為手をば、花を窮めたるとや申すべき。
(『風姿花伝』 第五奥儀云)
つまり、目利きの人にも納得させて、同時に、入門者にも面白いと思わせることできて真の作り手ですよ、と意訳すると、シンゴジラもそれからマイナスワンも世阿弥のいう目利き、入門者の両方を行き来できる作品だと思える。
マイナスワン。
”戦後、日本。無(ゼロ)から負(マイナス)へ”というコピーの本作は、文字通り、舞台が焼け野原の戦後日本がようやく復興しかけてきたころにゴジラがやってきて何もかもめちゃくちゃにする、という直接の意味もあるが、私には山崎監督のもうひとつのメッセージがあると思えてならない。
つまり、シンゴジラをゴジラ原作(ゼロ)の見立てをガラッと変えたという意味で、そのゼロから1にしたと捉え、今度の山崎監督の作品はその1を逆ベクトルに、つまり、シンゴジラで進められたものをもう一度王道のゴジラ像(ゼロ)に戻したという意味でマイナスワンだと捉えている。
そもそも、ゴジラ70周年ということで初代を観た人が減っているのに、初代ゴジラを知っている人に向けた上でマニアックなゴジラ像を追求するのはゴジラという伝統文化を守っていくためには悪手になる可能性がある。
”ベテランをうならせながらもマニアックになりすぎずに入門者もしっかり獲得する”
という意味でシンゴジラも、そして本作マイナスワンもアプローチは違うがどちらも慧眼だったかと思っている。
いや、今となっては前衛的だったといえばしっくりくる庵野ゴジラ像は、ゴジラ像を新解釈して面白かったが、進められた歩みは一度ニュートラルに戻して置かないと、言い過ぎかもしれないが以降のゴジラの印象がエヴァンゲリオン化してしまう怖れすらある。
そこで、もう一度ゴジラ像を原点(ゼロ)に戻すためのマイナスの一歩は必要な一歩だった。
今の時代は”0か1か”の古典物理学の時代じゃない。”0も1も”重ね合わせ、両方を含む量子力学の時代である。
なので、もし、両作品を比較してどちらがいいか?といわれると、この両作品に序列をつくることに何の意味があるのか?と考えてしまう。
強いて言うなら、ゴジラ像の見立てを変えたアート寄りのシンゴジラ、あくまで伝統的なゴジラの原像に忠実でありながら高度なVFXと人情ドラマのコントラストで観る人を選ばず、より広く受け入れられるようにデザインされた大衆的な映画マイナスワン、という感じで結論、両方だな、というところに私の中で着地した。
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