前回の続き
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VIVANTもDNAを引き継ぐ陸軍中野学校とは
では、その陸軍中野学校はどんな活動をされていたのか。むろん、秘密機関ゆえに資料などが乏しいが(一次資料などは皆無に近いという)、その中でも卒業生の証言などを長年収集された研究資料の決定版ともいえる陸軍中野学校全史/斎藤充功・論創社を参考に自分なりにまとめてみた。
日露で日本のスパイが暗躍したことは前述したが、その後も陸軍の諜報組織は組織的に整備され、いわゆる世紀の軍隊ではできない各種工作、謀略、諜報、宣伝工作などを行う「特務機関」とよばれる機関が誕生した。日中戦争が起こるころには、陸軍が諜報・謀略活動から一歩進んだ「情報工作員の養成」の必要性が高まり、陸軍大臣直轄の組織「陸軍省軍事資料部」に属する防諜機関「ヤマ」、それからさらに発展し、陸軍中野学校の前身となり総合的に情報活動を行う「後方勤務要員養成所」ができたのである。VIVANTの話中で出てくる乃木の別の人格Fが印象的だったが、F機関というものもあり、そこから因んでいたことが分かる。
中野学校は、創設が1937年、終戦の1945年までに約2100人の卒業生があったという。(うち、戦死289名、刑死8名、行方不明376名で3割の人は無事で済んでいなかったということが分かる)
一般の軍人と異なる教育カリキュラム
陸軍中野学校は、士官学校などの一般軍人ような教育総監部の監督下ではなく、政府省庁である陸軍省とは独立した形で大元帥である天皇に直隷して陸軍を統帥する首脳部である参謀本部直轄校として例外的な扱いだった。ゆえに、教育内容もむろん、一般の軍人とも随分と違う。
スパイというのは任務上、いかにも軍人というような風体では任務に支障が出てくるからだ。変装をして敵の拠点に潜入することもあるするので尻尾が見えてはならないし、平素から情報を聞き出しやすい態度を保持しなくてはならない。相手に嫌われたり、警戒されたりするような人間では任務が遂行できないことは素人でも想像がつく。
敵にスパイがいたことすら察せられることなく足跡を残さない隠密活動が徹底できる人間こそが一流なのである。実際に、いわゆる軍人エリートを養成する陸軍士官学校出身者などは稀で1割にも満たなかったという。むしろ、徴兵経験、社会経験を持った20歳を過ぎた名門大学出身の青年であることが多かったという。中野学校の創設の立役者の一人、秋草俊少佐をして”円満なる常識”を持つ社会的視野が広く、諜報員として冷静な判断力を持つことができ柔軟で融通が利く人材が求められたようだ。
つまり、ガチ軍人はかえってスパイ任務に向いていなかったのだ。映画「007」のジェームズボンドのように、高級ファッションを身に包みながらの諜報活動に破壊工作に、あげくに敵に名前が知れてマークされてもいるカッコイイヒーローというのはあくまでエンタメの世界である。
実際の教育課程の資料を見てみると、分かりやすいので以下をご参考いただきたい。※当時の極秘・教育内容が閲覧・ダウンロードできるサイトをリンクしておく。
一般軍人とは違う時に破壊工作も行う諜報員ならではの”任務のためなら何でもあり”ともいえるカリキュラムともいえるが、少し気分が悪くなる方もいらっしゃるかもしれない。読み進めるに当たっては各自の責任でご注意いただきたい。

資料:「後方勤務要員養成所乙種長期第1期学生教育終了の件」
「後方勤務要員養成所乙種長期第1期学生教育終了の件」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C01004653900、密大日記 第9冊 昭和14年(防衛省防衛研究所)
以下は上の画像の資料の課目からピックアップしたもの。
○軍事学 | 戦争学、外国事情及び兵要地誌(英国・米国・独国・仏国・伊国・蘇国・志那国・南洋・蒙古)、外国兵器、外国築城、情報・謀略・防諜・宣伝勤務 |
○政治学 | 国体学、経済謀略・政策、思想・労働問題、外国語(蘇語・英語・支那語) |
○武術 | 剣術、柔術 |
○実務 | 防諜補助手段、防諜技術、暗号、写真技術 |
○特別講座 | 細菌学、薬物学、心理学、犯罪手口、気象学、交通学・統計学など |
○実習 | 通信実習、自動車演習、航空実習、爆破実習、忍術、法医学など |
と、話穏やかでなさそうな学科が並ぶ。
実習では、変装、開緘(中身が開けられたことを悟られずに封筒を開封する)、開錠(金庫などの鍵を開ける)、スリなどもその道のプロから学んだという。
また、忍術?というものまである。つまり、潜入、脱出、護身、暗殺のためには必要なスキルなんだろうが、本物の忍者からも学んでいたとは。実際に、甲賀流忍術14世名人の藤田西湖氏を招き習っていた他、武術も合気道の創始者・植芝盛平氏からも習ったりしていたそうだ。
武田家に口伝で残る武術と合気道の交流の動画があったので参考までにリンクしておく。※今で言うとこんな感じかもしれない。
中野学校教育の指針〜謀略は誠なり〜
では次に、これらの技能を支える中野学校の教育の根本指針について触れていきたい。
謀略とは誠なり
孫子の兵法においては、“兵は詭道なり“つまり、謀略で敵の虚を突き欺くことと訳される場合が多いが、そこに中野の学校ならではの“誠”という理念が乗っかってくる。彼らの謀略活動から破壊工作に至るまで何でもかんでも敵を欺けばいい、破壊すればいい、殺せばいい、というわけでもなくそこには人道的な筋、理念が必要になる。今の企業でも利益を得るための社会的責任(CSR)あるいはミッション、存在目的である理念と理屈は同じだ。一人の行動、態度が国の命運を左右するともいえるスパイにとっての不正は自国の軍事機密情報が敵方に漏れることはあってはならないし、人から信用されず情報が入ってこないのは不適格である。そのため、諸々の高度なスパイ工作技能が求められる上に、理念を正しく理解し、誠実・忠実に任務を遂行することは絶対条件であった。
実際、中野学校のスパイの理想のあり方を示すような厳しい戒律を伺える資料がある。
資料:陸軍中野学校破壊殺傷教程
●第4章 破壊殺傷要員の戒律
一、いかに○秘技術に通暁し、破・殺に関する謀略に長ずるとも、その精神にして、没我奉公の念に欠くるところあらんか。到底○秘の実行をあぐることむつかしかるべし。
二、○秘士の隠密のうちに黙々と行動し、隠密のうちに、時にその屍を路傍にさらすべきをもって、あるいは青史を飾り、あるいは人口に獪炙するがごとき、一般武人の名誉がごとき、もとより望むところにあらず。
三、大捨石たるの不動心のもと、つぎに述ぶる戒律を修練し、常住坐臥、いやしくも犯すべからず。
(1)万邦無比の皇国軍人たることを忘るべからず
(2)八紘一宇の大理想顕現の重責を忘るべからず
(3)小心にして、周密陰大なるべからず
(4)困苦欠乏は、これを常と心掛けざるべからず
(5)喜怒哀楽を色に表すべからず
(6)酒食に魂を奪わるべからず
(7)いかなる状況においても、冷静自己を失うことあるべからず
(8)常時、真剣にして誠心、自心を失うことあるべからず
(9)科学的常識の涵養を怠るべからず
(10)関係事項を記帳携帯し、あるいは関係書類を携帯すべからず
四、これを要するに感情を抑制し、冷徹、水のごとき理性にもとづき行動する他面、火のごとき熱誠を包蔵し、人に接するに人間味豊富にして、自己を修むるには、神のごとき修練を目途とすべし。
陸軍中野学校全史/斎藤充功・論創社 資料2「陸軍中野学校破壊殺傷教程」
上記資料からも、陸軍中野学校で養成される破壊工作員の極めて厳しい規範や美意識が垣間見える。
こうやって見るとドラマVIVANTでも、国家の機密情報を漏らした敵スパイに対して別班員の乃木(堺雅人)の決め台詞になった
この美しき我が国を汚すものは、何人たりとも許さない。
は、陸軍中野学校のDNAの戒律ともリンクするのが見てとれるが、まるでカルト宗教の道理のようだ。
ドラマでは決め台詞だが、別班のDNAとも言える陸軍中野学校の思想の背景を調べてみると”任務(目的)のためならば時に破壊活動も自爆テロをも辞さない原理主義の過激派組織のスパイ”のようなものは、民主主義を標榜する平和国家なら公にはこれらの存在は全力で否定するだろう。
日本国憲法第66条2項「内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない」
とあるように、総理大臣にも内緒の秘密軍事組織の存在を許すということはそのまま解釈すれば文民統制からの逸脱を許す憲法違反にもなるのである。しかし、同時に、世界を見渡せば国家の存亡をかけて孫子の兵法・用間篇を実践するのも哀しいかなグローバルスタンダードなのである。
もし、敵国がミサイルを撃ってきたとして、それを見た後に撃ち落とす対策を講ずるというのは文民統制の範囲の考え方である。反対に、秘密戦士を前もって敵国に潜り込ませおいて事前にミサイル発射の気配を察知してそれを阻止する諸々の工作(宣伝など)を行うか、場合によっては基地を破壊するかは、諜報員の判断に委ねられる。
もし今も”別班”のようなものが本当に存在するのなら、あなたはその必要性についてどう考えるだろうか。
戦前、国是となった八紘一宇のスローガンが生まれた背景
ここで、陸軍中野学校にとっても任務の原動力ともなった、戦前の”八紘一宇”の理念について少し触れたい。
八紘一宇
(「宇」は屋根の意)世界を一つの家とすること。太平洋戦争期、日本の海外進出を正当化するために用いた標語。日本書紀の「六合(くにのうち)を兼ねて都を開き、八紘を掩ひて宇にせむ」に基づく。
広辞苑 第七版
“八紘一宇”はもともとは、日本書紀の言葉の引用で、初代・神武天皇が大和橿原に都を定めたときの詔勅であったという。しかし、太平洋戦争が始まる1940年は、神武天皇即位2600年(皇紀2600年)に当たり流行語にもなったというが本来、国是のようなものそれ以上もそれ以下もない概念である。
戦争体験もなければ、時代感覚の違う私たちにとっては八紘一宇という言葉を聞いてピンとくる人は少ないのは、戦後GHQによって禁止された言葉で、戦後、誰も使わなくなったから。
戦争経験者たちはこの言葉を戦後用いなかったのは、GHQによって強制的に禁止されたからというのもあるが、心情的に戦争の悪夢の記憶とともになかったものにしたい、という意味もあるだろう。
実際に2015年3月16日の参議院予算委員会で国会議員が国会にてこの言葉を使用し、「戦争や侵略戦争を正当化するスローガンであったことを軽視するもの」として、猛批判を生んだのも記憶に久しくない。しかし国民が敏感に反応する言葉になった背景には太平洋戦争で(国内外における宣伝工作)として二義的に使われ、なんでもかんでも「お国のため」と戦争一色に洗脳されていたという被害者意識や今後もまた同じようなことを繰り返さないかという危機感もどこかにあることは知っておきたい。
太平洋戦争時の日本国家にとって「八紘一宇」は、すべては「お国のために」に大義名分を与えた。陸軍の圧力により1938年の国家総動員法を発令により人的、物的な資源を国家が統制しうることが合法化され、言論や経済活動も制限されていった。つまり、軍国主義、超国家主義の養分となるような狂信的解釈になっていった。その社会背景に少し触れたい。
19世紀半ば以降から初頭の国際社会は”パクスブリタニカ”の時代(現代はそれに対してパクス・アメリカーナ)ともいわれ、イギリスを始めとする欧米諸国列強がアジアを植民地にしていた時代。帝国の搾取的支配からアジア各国を解放独立させ、日本を盟主とした大東亜共栄圏(東アジアの広域ブロック圏)を創ろう、という政治的コンセプトであり、日本帝国を核心とする道義に基づく共存共栄の秩序を確立を盟主とした民族解放運動のための理念であったともいえる。日露戦争の勝利でアジアで台頭した大日本帝国のそのビジョンは国際社会での影響力を高めていく。
では、理念ではなく実態はどうだったのか。つまり、ONE PIECEのルフィのニカのような解放の戦士たちだったのか、それとも四皇・百獣のカイドウのように欧米列国と同様に軍事力を背景とした威圧的な支配者だったのか。そもそも、それでは植民地からさらなる反感は生んでも、推進力にはならない。
この見解については一概にはいえないようだ。
参謀本部や陸軍省は同じく威圧的方式に傾いたようで、当然、南方作戦を実施した日本軍の一部は欧米列国とは真逆の植民地民の心服を得ることができるよう、独立を支援する方針をとったという。(参考:「陸軍中野学校」の教えー日本のインテリジェンスの復活と未来/福山隆)
ここでは詳細は記述しないが、八紘一宇の真の言わんとするところとは裏腹に支配的な侵攻を進めた国もあれば、中野学校出身の藤原岩市氏によるF機関(friendship,freedom,Fujiwara)という実績もある。彼はインド独立の父といわれるチャンドラボースとともにインド独立の母として讃えられている。
いずれにせよ、欧米諸国が植民地施策を進めるに当たってアジアの国々の現地の抵抗・独立運動を煽る「出る杭」になっていったということは、旧日本の理念である八紘一宇やビジョンである大東亜共栄圏、そして中野学校の諜報員の活躍を始めとする工作活動は西洋列強にとっては脅威であり、東アジアの植民地にとっては独立の機会になったということは確実に言えることであろう。
VIVANT最終話では、このようなことわざを主人公・乃木が引用した。
天親無く惟徳を是輔(こうてんしんなくただとくをこれたすく)
意味)天は公平で、特定の人をひいきすることはなく、徳行のある者を助けること。
いずれにせよ、当事者でも何でもなければ、その時代に生まれてもいない筆者である。当時の戦争の実態などできるわけもなく諸々の事実とその善悪是非の評価はむろんできないが、欧米と変わらない侵略的な部分か、それとも中野学校の言うように「誠」によるものであった部分、歴史が時が自ずとそれを証明していくものがあると思っている。
中野学校でもっとも重視された課目・国体学
一に曰く、道。
(中略)
道とは、民をして上と意を同じくし、これと死すべくこれと生くべくして、危きを畏れざるせしむる者なり。
孫子 第一始計篇
とあるように、国と民は理念を共有し、意思統一を行うことは孫子の第一始計篇にもあるように何よりに優先することである。
例えば、企業はしばしばマーケティング戦略にその会社は製品の歴史や伝統の系譜、社会的使命や理念、市場における優位性を明らかにしてストーリーにすることで求心力を高めようとする、いわゆる”ストーリーブランディング”を行う。”ストーリーブランディング”をは、孫子の兵法の「道」の実践である。
陸軍中野学校で最も重視されたのが政治学の課目・国体学なるものだった。陸軍中野学校の諜報員も例外でなく、兵法で最も優先する「道」の実践のためには今風の言葉でいえば国のストーリーブランディングを理解することに重きを置いたのは当然のことと思える。
国体学の授業は他の授業と違って、場所を変え、各人小さな机に向かって座布団なしで正坐しながら、まるで寺子屋のように勉強したということを卒業生の後の証言を残している。(参考陸軍中野学校全史/斎藤充功・論創社)
国体学には、古事記、それから神皇正統記/北畠親房、講孟余話/吉田松陰などがテキストとして使われたという。あるいは座学だけではなく、楠木正成や吉田松陰の精神に触れるためにそのゆかりの地を訪ねたりもしたという。
これは筆者の想像に過ぎないが、上意下達で組織全体で動く兵隊と単独行動が多いスパイでは仕事の原理がまったく違うことは想像がつく。前者の兵隊のチームワークは指令官の命令にいかに一糸乱れず実行できるかが重視されるが、後者は指令官と実行者もすべて自分がその役割を担う。つまり、国家の命運を担う諜報活動における意志決定を自分一人で背負うといっても過言ではない。
となると、学校教育によって詰め込まれたり、社会規範としてこうあるべきというところに止まっている外発的な国体観念となっていては単独行動の現場において自律的判断ができるとは思えない。自ら内省的し、内発的国体観念を確立していなければ、主体的な意志決定がすべてのスパイの現場では頼りにならないだろう。
ゆえに彼らは、秘密戦士の本分は何か?守るべきものは何か?自分たちの任務の本分は何か?それは、命を賭して、埋め草となっても成し遂げるに値するものか?捕らえられ拷問され、志半ばにして斃れ、その死体が路傍にさらされたとしても、遺族には自分が死んだことすら確認されないようなことがあっても後悔しないか?
国体観念というものと自己の価値観を結びつける「落とし込み」の内省と統合作業は絶対不可欠であったのだろうと思う。
通常とは正反対の教え、そして変な校風
玉砕は一切まかりならぬ。
これは、小野田寛郎氏が陸軍中野学校二俣分校時代に、当時の師団長であった横山静雄中将からの訓示であっという。
当時の国民意識というのは、「お国のために死ね」であった。
つまり、お国のために死ねば、靖国神社に英霊として祀られ天皇陛下も参拝してくれる名誉なことだ、という意識がたたき込まれていたわけだが、中野学校在学中の訓示は生徒たちを面食らわせただろう。敗戦が濃厚になりつつあり、国民が「本土決戦で一億総玉砕だ!」と叫んでいたような時期であることを考えれば、当時の戦陣訓として常識外れも善いところだ。
しかし、逆もまた真なり、秘密諜報という特殊な任務を担う彼らにとっては、情報が漏れることは言語道断である。メモを残すということも許されない。そして何より諜報の責務を全うするには生き抜く必要があった。途中で死んでしまっては諜報活動が途絶えてしまうからだ。ゆえに、自分から死ぬことは許されない。拷問などの苦痛に耐えられない時はやむを得ず、それ以外は許されなかったのだ。小野田氏は29年間フィリピンはルバングの残置諜者として29年の月日をその訓示を守り最後まで生き残り、任務を守り続けたことを証明したことにもなるが、そのことからもいかに陸軍中野学校の教育がすさまじいかの一端を垣間見えることはできよう。
中野学校の校風はかなり変わっていたという。
まず、軍服は着用せず平服、髪型は長髪。当時の軍人と言えば軍服に丸坊主が規定であった。平服、坊主で実家に帰った日にゃ、親から激しく叱責され肩身の狭い思いだったとか。(いやいや、参謀本部直轄でスパイになったねん、とは言えるはずもなく)
また、当時、スパイは海外任務が基本のため語学に長けている必要がある。(訛りで相手に不信感を与えてもいけないレベルで)そのため、敵国語であったため英会話は自粛されていた中でも、外国語の授業があった。
議論することはタブーと言われていた天皇のことについても是非の討論ができたという。一般の軍、あるいは国民の天皇批判は刑法における不敬罪で取り締まられていたことからも、異例であろう。
中野学校二俣分校に到っては、いよいよ本土決戦も視界に入っていたころ、日本の戦況がすでに不利であり敗戦の趨勢を鑑みた上で遊撃部隊の養成を始めたという。その事実は、思想統制されていた一般の軍人や国民とは違って包み隠さず生徒たちには知らされていたという。そうでないと、常に主体的な判断が求められる諜報員は行動ができないわけで当然のことであるが。
話は逸れるかもしれないが、企業経営において従業員にいちいち指示しないとわからない、強く言わないとまとまらない、いわゆる主体的な人材が育たないと嘆く経営者や幹部がある一方で、逆もある。その差はどこにあるかというと、企業の存在目的である理念や仕事において果たす社会的責任、それから経営においての現状や趨勢、成功要因を把握し、高度な納得の上で業務ができるかどうかにある。そのためには、事実情報の開示による実態の把握、目的地である理念の共有がないままに、その高度な納得は不可能である。
これも、中野学校の教育をロールモデルにせよ、とは言わないが極端な事例として現代において経営者や為政者が改めてリーダーシップの養成という範囲で研究してみてもいいのではないか、と筆者は思うのである。
変わった試験
さてそのドラマVIVANTも第8話で堺雅人氏が演じる主人公の乃木憂介が幹部候補生として陸上自衛隊に入隊、心理戦防護課程(諜報特殊部隊の通称)において面接試験を受けるシーンがある。
その試験官との受け答えはこうだった。
「ここのロビーのタイルの色は?」
「階段ですれ違った電気工事業者の特徴は?」
「右手には何を持っていたか?」
(さらに、地図で島を消して)
試験官「グアム島の位置は?(制限時間10秒)」
乃木「地図から消されていませんか?」
(と受け答えをする。)
試験に何の関係があるのか分からないような質問であるが、どうやらこれに近い話が陸軍中野学校では行われたらしい。
ここは引用の引用になるが陸軍中野学校全史/斎藤充功・論創社では、「歴史と人物(昭和55年10月号)」に掲載された「中野の教育と信条」というところで、関係者からの証言が掲載されたようだ。
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ぼくのときはね、騎兵学校から5名が選ばれて、九段の偕行社にいきました。一階で待っていると、そこに学生主任の伊東佐又さんがいらして、雑談しながら、それとなく人物テストをやっとった。それから口頭試験場の二階に上がると、陸軍省や参謀本部のひとたちが、やや半円形に、軍服や私服で並んでいました。当時は天皇機関説が盛んに議論されており、そういう国体論やら、国際情勢を聞かれた。また、「謀略とはなんぞや」なんていう質問もされました。それからメンタルテストみたいに、「お前いま下から上に上がってくるときに、エレベーターであがったろう。何か気がついたことはないか?」と言われた。
(中略)
軍隊に入る前の職歴だとか、そんなのを訊かれたくらいで、何の試験がさっぱり分からない。
上記の証言から見てもドラマVIVANTで行われた別班と中野学校が似ている事が分かってくる。
諜報の現場では、当然、暗号を用いることも多々あるだろう。そのため、問いの意図、非言語の情報を現時点でどこまで汲み取れるのか、あるいは訓練によってどこまで高めることができるのか、禅問答のようなユニークな質問で諜報員として敵の何枚も上手をいく想像力・思考力を持っているかどうか地頭やセンスを推し量ったのだろう。
VIVANTの第7話では、乃木(堺雅人)は
眼光紙背に徹す
意味:書物を読んで、ただ字句の解釈にとどまらず、その深意を読みとる。(広辞苑 第七版)
という諺を引用する。
特務部隊の諜報員として必要な能力を試すと同時に、これはある意味ドラマからの
「あなたは、VIVANTからどこまで作品の裏にあるメッセージ(暗号)を読み取れますか?」
という視聴者へ情報リテラシーをというように考察の余地を仕掛けてきた福澤監督始め制作陣、役者、そしてスポンサーたちの番組やTV局による解釈無限の心理工作にも見える。ゆえに、SNSなどでもドラマの会を追うごとに視聴者それぞれの考察の拡散されていき、さらに視聴率も上がっていく宣伝工作なのかもしれないw。
まとめ
以上、スパイの仕事術とその基本精神〜陸軍中野学校の教育〜と題して、VIVANTをきっかけにスパイの仕事や精神性に少しだけ触れてみました。
一方、先の大戦の話などデリケートなテーマを取り上げてしまった上に、当事者でもなんでもない私がこのことについて筆を執るのに若干の躊躇はありましたし、調べれば調べるほど1ブログ記事で紹介するにしても膨大な情報量で書き切れなかったことも多々あります。それゆえに、今も読者の方に誤解を生じさせないか、情報が偏りすぎてないか、懸念はあります。その点、ご指摘いただければ再吟味し、必要に応じて記事を修正する所存ですが、私が参考にした書籍は記事の中でご紹介・リンクを貼り付けているので、まずはそこも窓口にしていただき、情報収集のきっかけになれればと思います。
昔はじかに敵と対決出来たが今や敵は空中を漂っている
映画007「NO TIME TO DIE」
にもあるように、哀しいかな今のような敵がどこにいるのかさっぱり分からない時代においては、国民ひとりひとりがVIVANTとまではいわないまでも情報リテラシーを高め、ありとあらゆる工作に対して疑いを持ち、国防センサーを高めて置く必要があると思います。それが敵の謀略を未然に防ぐ第一前提であると思うからです。
本来、国民がそんなことを意識しないでもいいくらい平和であればいいのですが、非軍事の戦争が水面下で繰り広げられている”超限戦”といわれる今の時代はそうも言っていられなくなりました。
それゆえに、私たちは平和を守り、家族や大切な人を守るという定義もアップデートする機運も高まってきているように思います。VIVANTの制作意図もそこにあったのではないか、と思いますし、もし本記事がそのきっかけにくらいはなれたのなら本望です。
敵か味方か、味方か敵か。
日曜劇場「VIVANT」/TBSテレビ
油断大敵といいますが、私たちの敵は、案外、私たちの思ってもいないような身近なところに潜んでいるのかもしれません。
最後に、陸軍中野学校二俣分校出身の小野田寛郎さんの言葉で締めくくらせていただきたく思います。(小野田さんの実家である和歌山県海南市にある宇賀部神社で掲げられていたメッセージです)
本マガジンは政治・宗教団体にも所属していませんし、極右のブログを目指すものでもありません。
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